2019年の後半の朝ドラは「スカーレット」
戦後の滋賀を舞台に信楽焼きに衣装を捧げた陶芸家の物語です。
今回の朝ドラには原作はないのですが、参考とされた人がいます。
それが神山清子さんです。
このページでは神山清子さんの息子さんについてお伝えしていきます。
目次
神山清子ってどんな人?
神山清子さんは1936年8月2日生まれ。(現在83歳。)
日本の陶芸家として有名で数々の作品を残しています。
そして女性陶芸家としては草分けてきな存在です。
神山さんが陶芸の道を志したときはまだまだ女性は窯に入ることは「穢れ」と言われていた時代でした。
しかしそんな事にもめげずに窯に居続けました。
それからいつくもの作品を残しています。
しかし二人息子の長男が重い病気と診断されてしまいます。
その息子さんの病気を通して世間との関わりを持ちながらも陶芸に打ち込んだ波乱万丈な人生の持ち主です。
神山清子には二人の子供がいた
神山清子さんには二人の子供がいました。
一番上の子供が女の子の久美子さん。
下の子が男の子で賢一さんでした。
そして賢一さんは陶芸家として母の後をつぐ後継者にまでなります。
神山清子の息子神山賢一とはどんな人?
神山賢一(こうやま けんいち)
誕生日 1961年 2月16日生まれ(去年31歳)
生まれ 滋賀県信楽生まれ
母親 神山清子(金場清子)
父親 神山易久(こうやま やすひさ)
神山清子さんの息子賢一さんの性格について?
賢一さんの性格はのんびりした性格で打たれ弱く、どちらかというと自己主張は苦手なタイプだったそうです。
趣味は車やバイクですが、家にお金がないことを知って居るためにカタログなどで我慢していたというエピソードもあります。
神山清子さんの息子賢一さんのライバルとは?
実家が陶芸の窯を持っていることや、母親が陶芸家というメリットもありました。
がしかしデメリットもありました。
それは母親への嫉妬だと考えています。
その嫉妬は後に賢一さんの陶芸のスタイルを決めていく要因になります。
賢一さんは母親の「寸超窯(ずんごえがま)」を継ごうとせずに、
母親と対抗するような形で釉薬(うわぐすり)の可能性を研究して天目(てんもく)茶碗を制作していきます。
神山清子さんの息子賢一さんの陶芸について
母親は釉薬を使わない古来の方法を模索してその道を行っていましたが、賢一さんはそれとは真逆の釉薬を使い、その釉薬の可能性を模作しています。
それは賢一さんの歩んだ天目茶碗になります。
現在賢一さんの作品は滋賀県草津市の「草津クレアホール」で開いている神山清子さんと賢一さんとのコラボ展覧会でみることができます。
こちらの展覧会が2019年の9月5日までとなっているそうです。
神山清子さんの息子賢一さんの幼少期について
神山賢一さんは幼少期から母親の清子さんや父親の易久さんの陶芸に向き合う姿勢を見て育ちました。
そしていつしか自分も陶芸家なりたいと志すようになります。
母親の清子さんが陶芸に没頭すればするほど夫の易久さんとの関係は冷めていってそうです。
そして夫の易久さんは外で他の好きな人を作ってしまうことになります。
その時母清子さんは離婚を迷っていた時に、賢一さんは「僕は、母さんと姉ちゃんと頑張る。学校にいけなかったらアルバイトもするから、父さんはいなくてもいい。」
と言ったそうです。
それを期に母の清子さんは離婚に踏切ったと言われています。
神山清子さんの息子賢一さんの青年期について
賢一さんは高校を信楽工業高校に進学します。
学科は窯業科。
そして高校を卒業後は信楽窯業試験場で3年間の修行を経て、母の所で陶芸家として活動を始めます。
性格はおっとりだが、賢一さんのまわりにはいつもたくさんの友達がいたと言われています。
神山清子さんの息子賢一さんは何故亡くなったのか?
賢一さんは29歳の時に腰の痛みを訴えて病院で検査を受けると慢性骨髄白血病と診断されています。
29歳の誕生日からわずか数日後の出来事でした。
姉の神山久美子さんとは骨髄のHLAが一致せず一般の人からドナーを探すことになります。
当時骨髄バンクは存在していなく、知人たちの助けによって「神山賢一さんを救う会」が結成されました。
しかしドナーは見つかりませんでした。
結果賢一さんは祖母の静子さんの骨髄を移植することになりました。
静子さんは清子さんの妹にあたります。
しかし静子さんのHLAも二座不一致で完全には一致していませんでした。
しかし移植すれば治る可能性があったのです。
そしてそのわずかな可能性にかけて名古屋の赤十字病院にて骨髄移植を行いました。
そして賢一さんの様態が回復に向かっていきます。
しかし平成4年には白血病の再発をしてしまいます。
そして体力は日に日に衰えていきました。
ある時賢一さんは国宝級の「天目茶碗」が展示されている徳川美術館に行ってみたいというので、母の清子さんは賢一さんをつれて行くことになります。
しかし、その日はちょうど休館日だったのです。
さらにその後も体力は衰えていき、平成4年の4月21日賢一さんは母清子さんの子守唄を聞きながら亡くなったのでした。
まとめ
・神山清子さんの息子神山賢一さんは若干31歳にして慢性白血病によってこの世を去った。
・神山賢一さんは陶芸家として母清子さんの後継者だった。
・神山賢一さんは母清子さんの自然釉のスタイルに対して、釉薬の可能性を模作した天目茶碗を貫いた。
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